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ぞうブロ

旅行、音楽、スポーツから、転職、エンジニアの叫びまで。

束の間の夏休み後編。懐かしの「ドライビングターボ」修理で、蘇った親父との想い出。

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束の間の夏休み。家族が集まり、実家でゆっくり過ごしていた。

すると、屋根裏から親父が、埃のかぶった懐かしいオモチャを持ってきた。

そう、「ドライビングターボ」だ。

 

 

「ドライビングターボ」とは?

 

 ドライビングターボとは、1983年(昭和58年)にトミーから発売されたドライブゲーム。今から、なんと34年前!写真を見れば、知ってる人は一目瞭然ですよね。

middle-edge.jp

 実際でもプレイしてくださってる動画がありました。男の子はみんな夢中でプレイしたのではないでしょうか。


懐かしのドライビングターボ TOMY (turnin turbo dashboard)

 

ちなみに最新モデルは、この2014年発売モデル。音声案内カーナビまで搭載されてます。すごい。ただ、初代モデルで少年の心を躍らせたマニュアル変速切り替えがなくなり、オートマになってます。時代の流れなのですね。。

 

 

眠ってたドライビングターボを即席修理。復活! 

 

実家の屋根裏に長い間眠ってた、我が家のドライビングターボ。

埃をかぶってて汚れてたけど、、懐かしい!!

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 変速レバーは、折れてしまっている。でも、動きそう。

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電池を入れてキーONしてみると、電源が付いた!

しかし、、、電源は付くが、走り出さない。

興味津々の甥っ子(5歳&2歳)。

「やっぱり動かないか。まあ仕方ないよな」と寂しそうな顔をする家族。特に親父。

「お前、工学部卒業して設計やってるんやろ、何とかせい!」と叱咤する妹(独身29歳)。

「おじさん直して~」とせがむ甥っ子たち。

これで燃えなければ、設計者ではない。そして男でもない。

「よし、おじさんにまかせとけ!」

こうし私は、想い出を取り戻すため、クソ暑い中、一人修理に挑戦することになった。

 

ドキドキしながらフードボンネットを取り外す。6か所のネジをつぶさないように慎重に外す。

中は…なるほど、こんな風になってたのか!!

(あまりに修理に必死すぎたので、貴重な分解写真を取り損ねていた。。

ブロガーの端くれとして慙愧に堪えないが、平に勘弁願いたい。)

モニター画面は、昔のフィルムのようにロールがくるくる回転し道の映像を映し出す仕組みだった。

 

動かない原因が何か、何度も何度も動かしてチェック。

電装部品やハーネスに異常はなさそうだ。変速レバーも折れているがスピードの切り替えには問題ない。ステアリングも鈍ってるが、一応動く。

「おじさんまだー?」と督促をする甥っ子たち。

「まだやってんの?」と呆れながらも気になってる妻。

「ちょっと待って、もうちょっとやから、、、」

分解したドライビングターボとのにらめっこが続く。気づけば2時間が過ぎていた。

 

そして、ついに原因が分かった。

スプリング(バネ)が一か所、錆びて切れている。

どうやら、このバネは、燃料ゲージをEMPTY⇒FULLにするボタンにつながってるもののようだ。

燃料ゲージがEMPTYになったまま、このバネが切れてしまってたので、

燃料ボタンを押してもFULLにならず、走り出さないということだ。

あとはこれに代わるバネを。。しかし、そんな小さいバネが都合よくあるわけない。

コーナンにこもることも考えたが、幸いこれは仕事の設計じゃないので、耐久性がそこまでシビアに要求されないはずだ。少なくとも、30時間も持てば問題ないだろう。

というわけで、バネの代わりに輪ゴムをセッティング。長さ調整は適当。

 

セッティングすると、、、

動いた!!思わず、よっしゃ!!と叫ぶ。隣でうつらうつらしてたうちの犬がビックリするくらいの声だった。

 

はやる気落ちでカバー等を元に戻して、完成!

仕事でやらされている設計と違って、一つもオモチャの修理でこんなに感動できるものとは。

 

「おーーい!直ったぞ!!」

走ってくる甥っ子たち。半信半疑の大人たち。

「よし、やってみ!」

ドライビングターボは、あの懐かしい爆音を鳴らしながら、元気に動き始めた。

道を外れると鳴るピピピピ…という警告音が鳴ると、一同(主に男性)がどっと沸いた。

 

喜んでくれて、夢中でプレイしてくれた甥っ子君。

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私の闘争心に火をつけてくれた妹も、「よっ、さすが理系!」と手のひらを返しながらプレイ。

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みんなひとしきり遊んで、一息ついたとき。

ふと見ると、親父が嬉しそうな顔をして、ドライビングターボをプレイしている。

あんな嬉しそうな顔をした親父を見たのは久しぶりだ。

 

蘇った、親父との想い出。ありがとうドライビングターボ。

 

親父は典型的な昭和の男。サラリーマンの傍ら家業の百姓をしていた。

真面目で、口数は少なく寡黙。背中で語るような男だ。

今思うと、営業の仕事をしてて仕事で喋ってたので、家では無口だったのかもしれない。

そして私が子供の頃、親父は怖い存在だった。

子供の頃は、よく悪さをして、オカンに怒られたものだ。オカンは口うるさかったが、それでも馬鹿な私は悪さをたくさんした。

しかし、そんな私が震え上がる言葉があった。

「お父さんに言うで!!」

この言葉の前では、私も黙り込んでしょげかえるしかなかった。

実際、何度かオカンから親父に悪さを通告されたことがある。

そのときの張り詰めた雰囲気は、今思い出しても背筋が凍る。

「お前、ちょっとここに座れ」

そう言われて親父とオカンの前に座らされるとき。それはもう、死刑執行台に立つ囚人のようだった。

 

あれは私が小学校3年生くらいのときだ。

近所の駐車場で野球をやってた私たち。何を考えたか私は石を投げて遊んでいた。

その石が、車のリアガラスに直撃。バリーーン!と音を立てて割れたガラス。

「やばっ!!」と私は友達と一目散に逃走。

家に帰ってきて様子のおかしい私に、両親が何かあったのか?と聞く。

しかし、私は噓をついて、何もないとしらを切り続けた。

しかし、先に正直に白状した友達のお母さんからうちに電話がかかってきた。

嘘を嘘で塗り固め、ごまかそうとしたが耐え切れなくなり自白。

そのときの親父の怒りは、半端なかった。

ガラスを割ったことではない。嘘をついたことに対してだ。

怒った親父は、私が命の次に大切にしていたファミコンを持ち出し、庭の木に思い切り叩きつけた。

目の前で砕け散るファミコン。私は恐怖で涙も出なかった。

その後、車の持ち主さんのところへ連れていかれ、親父と一緒に謝罪。この経験は私に生涯忘れない教訓を焼き付けた。

嘘をついたり、ごまかしては、いけないということ。

そして、スーパーファミコンの登場まで、友達の家でしかファミコンをすることができなくなった私。高い高い代償だった。

今でもファミコンやゲームが大好きなのは、このときの想い出が原因なのかもしれない。

 

そんな親父だったが、よく仕事帰りにパンやシュークリームを買ってきてくれた。私はそれが大好きだった。

ドライビングターボで遊んでたのは、たぶん私が5,6歳の頃だろう。今の甥っ子君とちょうど同じ年頃だ。誕生日か、クリスマスかに、親父が買ってきてくれた。

小学校のとき、柔道の試合を、たまに親父は応援に来てくれた。一本勝ちをすると喜ぶ親父の前で、私は照れくさくてどんな顔をすればいいのか分からなかったものだ。

田んぼでのキャッチボール。近所の川での釣り。思い出は、意外とたくさんあったのだ。

 

親父のことは好きかと言われると、よく分からなかった、

というのも、畏怖の対象で、どう接すればよいか、分からなかったのだ。

 

私が長男ということもあって、親父は厳しかった。中高の反抗期、よく私は壁を殴って家を飛び出した。

うちには3人兄弟がいるし金がない。お前は私立大でなく国公立に行け。そして家から通えと言われていた。しかし、例外があった。東大か京大に行けば、一人暮らしをさせてやる。

そんな成績では全然なかった馬鹿な私。しかし家を出たかった私は、その言葉を信じて、一心不乱に勉強した。親父は口数は少なかったが、約束は絶対に守る男だったからだ。

現役時は京大に落ち、家から通える公立大学に受かったが、私は悔しくて、初めて両親に頭を下げた。浪人させてくださいと。

親父は黙ってうなずき、「一年だけ猶予をやる」といい、特待生で無料だったが私文向けだった代ゼミでなく、理系受験に一番いいと言われていた駿台に行けと、予備校費100万を持たせてくれた。初めて見る百万円の札束。手が震えた。周りの人間が全員強盗に見えた。

一浪後、なんとか大学に受かり、晴れて一人暮らしができるようになった私。田舎モンなのに調子に乗り、似合ってない金色に髪を染め、自堕落な毎日を送る私。

親父は言った。何のために大学に行かせているのか。チャラチャラするな。調子に乗るな。

うるせーと言い返し、逃げていた私。その後案の定大学院を中退してしまった。

なんとか内定をもらった。親父は一安心しつつ、こう言った。「偉そうに言ってたのにこの程度か。悔しかったら仕事で結果を出して見返してみろ」

 

親父とまともに話すようになったのは、社会人になってからだ。

社会人になると、それまでわからなかった親父の偉大さが肌身に染みて感じられた。家では仕事の話は一切しなかった親父も、実は色々あったんだろうな。そういう思いが、私と親父との距離を近づけた。

帰省した時。農作業を手伝った後。親父と二人で飲む時間も、徐々に緊張感は薄れていった。お互い口数は少ない。でもそれでよかった。

 

決して望む会社ではなかった。でも、親父に言われた通り、仕事を頑張った。

そうして7年。転職のチャンスが来た。

会社のネームバリューも年収も上がる。そして長男として実家に近い場所になる。いずれは帰らないといけないと、分かっていた。

だけど、7年いた会社では、みんな私によくしてくれていた。仕事も評価されつつあり、上司も可愛がってくれた。会社が好きになっていた。

どうしよう。残るか、転職するか。私は悩みに悩んだ。悩んで悩んで、ついに親に相談した。進路のことで親に相談するのは初めてだった。

親父は言った

「転職するのもいい。残るのもいい。こっちに帰ってこなくてもいい。俺らのことは心配するな。最後はお前が決めろ。ただし、どっちにしてもお世話になった人への感謝は忘れるな」

そして私は転職を選んだ。転職先の人。元会社でお世話になった人。どっちも、ずっと大切にしていきたい財産だと思っている。

 

私が結婚した年の盆休み。

庭でバーベキューをしながら、親父が私たち兄弟に言った。

お前らにはあちこち連れてってもらった。夢も見させてもらった。感謝している、と。

親父がそんなことを言うのは、初めてだった。

私にはそれが、生前の別れの挨拶のように感じられた。

そんな縁起でもないことを言うなよ。それに俺は親不孝ばかりしてきたぞ。でも、ありがとう。

私は胸がいっぱいになり、何も言葉を返せなかった。

 

親父は仕事をリタイアし、今は百姓一本で、晴耕雨読の生活をしている。

昔は寡黙でクソマジメで不器用な親父が嫌いで、親父みたいにはなりたくないと思った時期もあった。

でもいつの間にか、親父を同じような道を進み、親父に憧れ目指している自分に、気が付いた。

親父の背中を超えたいとずっと頑張ってきた。

でも、歳をとるにつれ、まだまだ親父の背中は遠いんだと、痛感させられることばかりだ。

いつか子供ができたとき、俺は親父のようになれるだろうか。不安もあるが、まあなんとかなるだろう。俺は親父の息子なのだから。

 

長くなってしまったので、この辺にしておこう。まだ親父は元気で生きていることだし。

田んぼで消毒をする親父の背中。

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そんな親父が、うれしそうな顔で、復活したドライビングターボをプレイしている。

おそらく、私たちの子供時代、昔を、思い出しているのだろう。

なんか、グッときた。 

設計者、理系で良かったと思えた、数少ない瞬間だった。

 

改めて、ドライビングターボ、34年前なのになんてカッコいいんだ。

作った人、設計した人。まじで天才だ。

たくさんの子供たち大人たちに夢と感動を与えてきた。そして34年たってもまた、こんなすがすがしい気持ちをくれた。本当に素晴らしい。開発者の方々に会ってみたいです。

最後に写真をもう一度。ありがとう、トミーの開発者の方々。

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